舜天王統【琉球王】

舜天王統(3代)

琉球王統で分けると上から2つ目に当たるのが「舜天」王統。

舜天王統は、1187年から1259年まで3代続いたと伝わっている。
正史に登場するので史実の王統といわれているが、調べてみると伝説という要素が強い部分もある。

6つに分かれる琉球王統

天孫氏王統

舜天王統

英祖王統

察度王統

第一尚氏王統

第二尚氏王統

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王に関連する伝承や史跡などをまとめてみた

01 舜天

02 舜馬順煕

03 義本

1代目:舜天

舜天しゅんてん…1187年~1237年

琉球王府の正史『中山世鑑ちゅうざんせいかん』に舜天王のことが記載されていることから、正史に登場する初めての王統とされているようだが、話の内容的に伝説の類ともいわれている。

舜天にまつわる伝承 その1

長く続いていた天孫氏王統だが次第に世の中が荒れ始め、家臣だった利勇という人物に滅ぼされたという。
そのときに浦添の按司だった尊敦そんとんが兵をあげて利勇を倒し、混乱をおさめた後に王になることをすすめられて王の座に就いたと伝わる。

舜天にまつわる伝承 その2

源為朝と大里按司の妹の間にできた子という伝説がある。
流刑になった源為朝が今帰仁村の運天港にたどり着き、南部まで移り大里按司の妹と妻子をもうけた。
その後、源為朝は故郷へ戻るため旅立ち、残った妻子は浦添市の牧港で源為朝の帰りを待った。
そのときの子どもが尊敦で、のちの舜天王という。

舜天にまつわる伝承 その3「テラブのガマ」

浦添市に「牧港テラブのガマ」という史跡がある。
1165年に今帰仁村の運天港に漂着した源為朝は、大里按司の妹を妻に迎えて男児をもうけた(この男児が尊敦)。
しかし為朝は浦添から出港して帰郷、残された妻子はテラブのガマで為朝の帰りを待ち、「待っていた」という伝承から「マチナト=牧港」という地名もついたという。

2代目:舜馬順熙

舜馬順熙しゅんばじゅんき…1238年~1248年

調べた範囲では謎の琉球王で、後述する「ナスの御嶽」で名前が出てきた。

3代目:義本

義本ぎほん…1249年~1259年

義本王の墓(国頭村)

国頭村に義本王の墓と伝わる場所がある。
2013年2月21日の琉球新報Webニュースによれば、「義本王の墓」と伝わっている場所から人骨が5~6柱見つかったとあった。
しかし義本王のものかは特定できておらず、また県内にはほかにも義本王の墓と呼ばれている場所があるらしい。

ナスの御嶽(北中城村)

北中城村にあるナスの御嶽の上に舜天王統(舜天・舜馬順熙・義本)を葬ったと伝わるお墓がある。
一方、別の伝承では舜天王と舜馬順熙王の2人はナスの御嶽の上に葬られたが、義本王は「王妃御墓」に葬られたともいわれている。

王妃御墓(北中城村)

北中城村の喜舎場集落に王妃御墓はあり、義本王の妃が葬られていると伝わる。
また一説には義本王もここに葬られているともいわれている。
義本王の直系子孫という花崎家の口伝によれば、中には義本王(天次王)・真鍋樽按司・西之按司加那志・桜尚の厨子があるらしい。

義本王の時代に飢饉となり疫病が蔓延して、社会情勢が不安になった。
このときに政治を任されたのが次の王統となる「英祖」で、義本は自ら王位を退いて英祖に王位を譲ったという。